《MBFメンバー》
■ 本質との向き合う「只菅打坐」のお話がとても興味深かったです。
■ 個人的にはとても興味深い内容だった。 禅がreligionはないということ(神と人とをつなぐものではない)、想いを手放すのが人間の本質であることなど、新しい気づきがあった。禅が宗教でなく、よりよい生き方のための哲学であるからこそ、800年前の教えが現代にも生き、またグローバルに通用するということなのか、と思った。 ただ、マインドフルネスなどの処世術と、禅宗の教えの深さの間には、何か違うものがあるはずで、それが何なのか。目的を手放すことが禅の教えだとすると、生臭いブランド論との接点をどこにもっていけばよいのか、悩んでしまった。 むしろ、(神という存在ではないが)企業と人をつなぐ、という視点からは、宗教に学ぶところがあるのではないか。一方的な教えだけでなく、相互関係を意識し、コミュニティをつくっていくような宗教の形の中に、さらに気づきがあるのではないだろうか。
■ 永平寺をブランドとして捉え、ブランドの哲学、本質から守るべきこと・前に進めるべきことが明確で学ぶべきことが非常に多く、勉強になりました。
■ 始まっていきなりの5分間の「イス坐禅」は、確かに心が落ち着いてよかったです。 私の場合体がポカポカと温かくなりました。 始まる前は永平寺と国際部部長という肩書がミスマッチに感じておりましたが、お話を聞いて納得。 考えて見れば、そもそも仏教はインド発で中国を経て日本に伝わったわけで、それが日本で「禅」として日本文化の核にまで高められ、そして今またそれをさらに東の西欧に伝える・・・、と正に地球をぐるっと回るような国際的な宗教だったのですね。 と言うか、キリスト教徒にとってはReligion(宗教)の語源は“神と人とを結ぶもの”なので、自然や宇宙とも一体である「禅」は宗教には当たらない、というお話は新鮮でした。 また講和の後の質疑応答も思わず唸るほど素晴らしいものでしたが、やはりお話を聞くより坐禅の泰賢が重要だと悟りました。
■ 只管打坐。ただひたすら座ることであり、ただ座るだけでない。こだわって掴んでいるもの、掴もうとしてもがいていることを放すことだと。ほんの短い時間でしたけれど椅子座禅で心が澄んだ気がします。否、極めればそこに到達できるような気がしました。在家と出家、俗世と浄土の違いは何かと考える。俗世は衆生の住む迷いの世界です。そこにあるのは“欲”であり“ビジネス”も所詮、欲なのでは?と迷います。究極のブランドは宗教に近づくと思いますがやはり宗教には成り得ないとも思います。なぜなら俗世のアクティビティだから。だからこそ、ブランドを考えるとき、俗世の地平でものを考えるのではなく、自分のためではなく、人のため、世のため、一切衆生のことを考える。仏の心に少しでも近づく。そんなメッセージととらえました。
《片平ゼミ学生》
■ 差別、区別することをやめるという話がありましたが、普段自分もそうした心に捕らわれてしまっていると感じさせられ、自分の生き方に対して、物の捉え方に対して様々な示唆を与えてくれる内容でした。 また永平寺に行って座禅したくなりました。
■ 非常に哲学的な内容で興味深く聞きました。感じのなりたちや、仏典についての話など、ふと気づかされることが多かったです。それとともに、非常に話がわかりやすくその話術にも感服していました。
■ 何かをつかむためには手を開かなくてはならないという言葉が印象に残りました。