『ブランドのDNA』 最終章 なぜ「ブランドは人がつくる」のか?
片平秀貴
「よい品質の商品をつくって、積極的に広告し、顧客の満足を獲得し続ければ、相当な時間の経過を経てブランドが出来上がる。その組織的裏づけとして、ブランドづくりを担当する専門の部署が必要だ」
これが、世間に跳梁跋扈する「ブランド論」の大筋である。
本書では、この耳障りのいい「ブランド論」のウソを暴こうとした。一見もっともらしいが、ブランドとは何か、ブランドはどうできあがるのか、という基本に立ち戻って見てみると、以上の主張が、真のブランドづくりに対して不毛であるだけでなく有害ですらあることがわかる。
個別の嘘がなぜウソであるかについてはすでに述べたが、個々のブランドの事例全体を通して見ると、そこにそれらの嘘をウソたらしめている太い糸があることに気がつく。それは、ブランドの原点が「人が人を感動させる」ところにある、という認識に深く関わっている。ブランドは、感動の蓄積からしか生まれないし、人を感動させられるのは生身の人間しかない。この根源的なポイントをどう理解し、どうアクションを組み立てていくかによってブランドづくりの成否は大きく左右されるのである。
そもそもブランドとは
ブランドができあがるとか、ブランドづくりの成否、と言ったときの「ブランド」とはそもそも何なのであろうか。ブランドは顧客の頭の中にできあがる深い〝皺〟である。その皺にはブランド名が刻まれ、そのブランドから受けた過去の感動体験とそれにもとづく将来への期待がしまわれている。
この皺が、顧客をして「和菓子なら虎屋」、「BMWしか乗りたくない」、「いつかはリッツ・カールトン」と言わせしめるのである。一人ひとりの顧客の頭の中にブランドができあがっているということは、その人にとって、圧倒的存在感、他に替えがたい魅力、そしてちょっとばかりの誇らしさがあるということである。そのような状態が容易には生まれないということはすぐに分かる。
しかし、万が一生まれるとしたら、どうやって生まれるのであろうか。
おそらく、つぎの四つが成立したときに、顧客の脳に皺が刻まれる可能性が高まるものと思われる。
- 顧客が尋常でなくすばらしい体験をする
何ておいしいアイスクリームなんだ
- その体験が***のおかげであることを知る
「ハーゲンダッツ」というところがつくっている
- そのような体験を届けてくれた***の信念、信条、哲学に触れる
原料の牛乳が生まれる土壌からお店の冷凍ケースの温度まで、一貫して徹底的にこだわっているらしい。だから、他とはぜんぜん違う
- 1から3のことが繰り返し起こる
なるほどハーゲンダッツね⇒やっぱりハーゲンダッツか⇒さすがハーゲンダッツだ
1は商品・サービスを磨くことにより達成することができる。しかし、2と3が伴わないと、そしてそれが一貫してぶれることなく繰り返されないと、「さすがハーゲンダッツ」とはならない。そこに、いいモノをきちんとつくり、宣伝広告で知名とイメージを上げ、「売りまくる」、という20世紀型マーケティングの定石がブランドづくりの助けにならない理由がある。では、どうしたらよいのだろうか。
ブランドをつくる組織に求められること
第1章で、われわれは、強いブランドをつくり上げる組織に必須な以下の三つのポイントを提示した。この三つこそが、上のスパイラルを回し続けるエンジンになるべきもので、「ブランドは人がつくる」とわれわれが主張する根拠なのである。
- 自分たちは誰をどううれしくさせるためにあるのか、という基本哲学が組織を貫通している
- 顧客がうれしくなるのならためらわずにアクションに移るという「筋肉」が備わっている
- 顧客がうれしいのを見て自分がうれしくなる、という利他の心が備わっている
《哲学》
これは、自分たちが何のために生きているのかを規定するものである。ブランドの生い立ち、創業者の情熱といったものに源を発し、時代とともに磨き上げられてゆく。これは合理だけでは説明できない「タガ」で、これで自らを縛りながら、自らに固有の元気を与えるという、人間にしかできないしくみである。
- ディズニーは、万人の「子供心」に訴えて小さなうれしさを提供する
- ナイキは、万人の「アスリート心」に訴えて、格好いい生活を演出する
- 花王は「清潔で美しく健やかな毎日」を提供する
ディズニーが「子供心」と叫ぶ裏には、政治、暴力、セックス、ドラッグを扱うものには絶対に手を出さないという規律が秘められている。このようなタガはもちろん合理から来るものではない。どんなに儲かるかもしれないがそれを捨ててまで規律を守るというところが社員に元気とプライドを与えている。
ここで重要なことは、しばしば哲学が言語で表現されているということである。ザ・リッツ・カールトンの「紳士・淑女をおもてなしする私たちも紳士・淑女」というモットーも、それだけ聞くと具体的に何を意味しているのか分かりづらい。ところが、ザ・リッツ・カールトン大阪の従業員は誰でも、それがどういうことなのか10分でも20分でも語っていられるはずである。通常平易な言語表現の裏に、信じられないほどリッチな行動規範がこめられているのだ。
言語表現としての哲学とそれが実際のアクションを通して顧客に伝わることの間には大きな開きがある。哲学がただの作文として存在しているだけでは何の意味もない。それは社員一人ひとりの筋肉の中に余すところなく埋め込まれていなくてはならないのだ。ほとんどのブランドが苦労しているのもこの点である。それを実現する方法は一つしかない。それはできる限りのスピードと頻度で、「哲学・アクション・哲学・アクション」の連鎖を繰り返すことである。哲学の確認⇒アクション⇒再確認と反省⇒つぎのアクション、を繰り返すことにより、言語としての哲学が筋肉の中に刷り込まれてゆくわけである。
ザ・リッツ・カールトンには、モットーを行動レベルに落とした「ベーシック」という20の規範がある。「妥協のない清潔さを保つのは従業員一人ひとりの役目です」というのはその一例である。彼らは毎日それらの一つひとつを順番に取り上げて朝礼で確認し、仕事の終了後その実行具合をまた議論する。こうやって、仕事の現場で着実に「紳士・淑女」が身についてゆくことになる。
《筋肉》
ブランドは顧客に繰り返し新たなうれしさを届けなければならない。顧客が新たなうれしさを体験をするということは、ブランドが休むことなく適切な革新的アクションを生み続けるということである。アクションは言うまでもなく関係者全員の筋肉運動である。筋肉は使うことによってのみ鍛えられることを考えると、ブランドは常にアクションを欠かしてはいけないことになる。
ディズニーのテーマパーク部門の長老、マーチン・スクラーは、「ディズニー人とは」という筆者の質問に答えて、「夢やアイデアがあふれ出る人」に加えて「行動に伴うリスクを取れる人」を挙げた。夢は積極果敢に実現させなければ意味がないというわけである。㈱シマノの人々は皆、何かにつけて「ええもん、始末して、血の小便流してなんぼや」、という創業者島野庄三郎氏の言葉を引用する。ここでも、血の小便を流すほど「筋肉」を使うことが求められている。
今回見たどのブランドも過去の栄光にあぐらをかいて休んでいるところは一つもない。ただひたすら、「夢⇒革新(アクション)⇒顧客の喜び⇒反省、学習⇒つぎの夢」というスパイラルを全力で回すのに必死だが、そこで革新のステップが核になっているのは言うまでもない。
《利他の心》
ウォルト・ディズニーは生前、若い社員をつかまえては「われわれはお客様をちょっとうれしくさせるためにいる」と語っていたという。ブランドはなぜそれほどまでに顧客を喜ばせることにこだわるのだろうか。「儲かるから」ということでは決してない。何かをして差し上げて「ありがとう」と言われたときのうれしさを一度味わうと、人間としてこれに勝る喜びはないという。おそらく、そのような喜びを十分に体験した良質で高級な人間が集まって、本心で「顧客が先」と思っているに違いない。
今日、個人の生活でも、ビジネスでも他人のことは知らないが自分だけが幸せになればいいという考え方が支配的である。「わが社のシェアは・・・」、「企業価値最大化を目指す」、といった経営者の発言をとりわけおかしいと思わない風潮は米国直輸入の20世紀型経営論の悪弊である。近代経済学の企業利潤最大化、消費者効用最大化のモデルもアカデミズムの衣をまといながら密かにこのような考え方を是認し、助長してきた罪は重い。実は、洋の東西を問わず、卓越したビジネスの実践はこのような偏狭な世界から無縁なところで生じている。
『ビジョナリー・カンパニー』の著者の一人、元スタンフォード大学ビジネススクール教授のジェームズ・C・コリンズは最近のエッセーの中で、「第五水準の経営者(経営者をその経営能力で5段階に分けた最上階の人たち)とその他の人々を明瞭に区分する属性は、不屈の実行力と謙虚さだ」と語っている。彼は謙虚さを、彼ら(第五水準の経営者)は世間的には決して著名ではなく、彼らの企業が成功したら「窓の外を見て(他の社員の功績と褒め称え)」、失敗したら「鏡を見る(自分の不明を恥じる)」、と説明する。
多くの強いブランドは、上のウォルト・ディズニーの場合のように、利己の産業文化の中にあって突然変異のように利他の心を叫ぶリーダーに恵まれる。
「買う喜び、売る喜び、創る喜び」を唱えたのは本田宗一郎であり、「栄養不足で死んでいく乳児を一人でも多く助けたい」と叫んだのはネスレの創始者、アンリ・ネスレであった。この貴重な精神的資産を、謙虚さと実行力を身につけた代々の経営者たちが磨き上げて、輝きを増してゆくというのが強いブランドの典型的な発展のパターンである。
独自の哲学に基づく強いこだわりは、ともすれば独りよがりで顧客にとってつらいものにもなる可能性がある。「自分が顧客だったらうれしいか」を常に問う利他の姿勢はこれに歯止めをかけてバランスを保つ重要な意味を持っている。
問題は、この利他の心をどう組織全体に広めていくかである。強いブランドの組織では多かれ少なかれすべての人が、顧客にうれしさを届けるという究極の喜びを知っている。組織全体で《アクション⇒顧客のうれしさ⇒利他の心の再確認⇒アクション》というスパイラルを回すことで、社員は自律的に《顧客がうれしい⇒自分がうれしい⇒業績が上がる》が間違いないことを体感し深めている。唯一の問題は、新しく組織に加わる人だが、これについてはつぎの二つの配慮が重要である。
- 利他の心を理解する余裕のある、心豊かな人を選別する。この点について唯一客観的な基準を持っていたのはザ・リッツ・カールトンであった。50余の質問群とその回答に基づく判別という考え方は他の企業も検討するに値する
- 採用した初期の段階で、どう仕事をするかではなく何のために仕事をするかを理解させる。顧客サービスで知られる米国の高級百貨店ノードストロームには作業マニュアルはない。あるのは『従業員ハンドブック』と呼ばれる1枚の紙切れだけである。そこには二つのことしか書いていない。「卓越した顧客へのサービスを心がけなさい」と「どんな状況でもあなた自身の判断で物事を進めなさい」の二つである。ネスレのリヴレイン、ザ・リッツ・カールトンの新規開業前研修も、その重点は、圧倒的に、何のために仕事をするのか、の浸透にある。
この二つの配慮をしたうえで、上記の利他の全社スパイラルに徐々に巻き込んでゆくことにより、真に顧客をうれしくさせたいと願うブランド人集団がさらに揺るぎのないものになってゆくのだ。
ビジネスは人が人をうれしくさせること
われわれは長いこと、ビジネスは顧客の欲する製品・サービスをできるかぎり効率的に提供することにより、顧客の満足と企業の利潤の双方を同時に追及する活動である、と考えてきた。そこではほとんどの活動は「論理的に」説明され、このゲームに参加するプレーヤーは、投入した努力に比べてどのくらいの金銭的な報酬があるか、または、投入した金銭に比べてどのくらい満足が得られるか、という人間としてはやや寂しい基準で行動するものと想定されていた。
ところが、何十年、何百年と人々に愛され、崇められてきた内外の多くのブランドに直に接してみると、これとはまったく違う原理で動くもう一つの世界があることが分かり、筆者たちは大いにショックを受けるとともに新しい発見に興奮を覚えた。
そこではビジネスは、人が人をプロフェッショナルに幸せにする永続的な社会的しくみ、として位置づけられていて、利潤の獲得はその永続性を支える重要な必要条件に過ぎない。お金を儲けて幸せになるのではなく、幸せになるための基礎としてお金が必要だ、というわけで、順序がまったく逆になっている。
ビジネスを、人が人を幸せにする業と捉えると、その議論は急に奥行きを増す。企業は、その行動がたった一本の数式で表せるような無機的な存在ではなく、固有の歴史と文化を持った生身の人間の集まりになる。一人の人間がかけがえのない存在であるのと同じ意味で企業もかけがえのない存在である。違うのは、人は放っておいてもそのDNAを媒介としながらその特徴が継承され、代々一つの流れが出来上がるが、企業は相当強い意識されたしくみがないと一貫した独自性を維持できないばかりか、その存続すら危ういものになる。そのしくみをきちんとつくり上げ動かす組織だけが、顧客に一本筋の通ったうれしさを継続的に提供することができ、結果的に強いブランドをつくり上げることができる。
本書は、古い企業観にもとづいてこのような企業の動きを捉えようとしたときのさまざまな問題点を「9の嘘」として指摘し、これらの嘘の裏にはたった一つの真、すなわち、「ブランドは人がつくる」というモデルがあることを主張した。本書の意図は、俗説を否定するところにあるのではなく、正しいブランドづくりの道を模索している人々に何らかの「気づき」を与え、ブランドづくりという「人が人をプロとしてうれしくさせる」動きを少しでも広めていこうというところにある。数年後に、「嘘」自体が消滅し本書の存在意義がなくなるときが来ることを祈りたい。
(この文章は2005・10刊行の『ブランドのDNA』(片平秀貴、森摂著 日経BP)より抜粋したものです。著作権は著者にあります。)