第2章 作り手と使い手が一体となる 1 「米国経営学」の本質 本章から本題に入るが、全体の議論の出発点として、本書の主題である「反経営学の経営」の対極にある「米国経営学」についてより踏み 込んだ議論をしてお くことにしよう。 米国のレストランで席に案内 してくれた女性に「お水をいただけますか」と声をかけると、それまでの笑顔を急に曇らせて、「ウェイトレスに頼んでください」と無愛想に答える。ビールの 注文をとった男性に「料理を取り分ける小皿を下さい」と頼むと、これも無愛想に「申し訳ないがそれは私の担当ではない」と答える。 このようなことは、もちろん日本では考えられない。しかし、米国では日常茶飯事なのである。米国では、会社の仕事の仕方も基本的には これと同じで、担当分野を少しでも外れると、「申し訳ないが、それは私の担当ではない」という言葉が飛んでくる。顧客から見ると一つのことなのに、その一 つの仕事を分割し、それぞれに特化して複数の人が担当している。そして、他のことには一切かかわらない人たちが、十分な連携もないまま仕事を進めている。 その結果、絶対に予約の順番を間違えない受付係、どんな複雑な料理でも「今日のスペシャル」を間違えずに空でいえる客席係、瞬時に テーブルを片付けて次のセッティングを用意できる設営係といった高性能ロボットのような人は育つであろう。しかし、顧客が本当にうれしくなるようなサービ スが生まれることは決してない。 これは少し極端な例だが、近年は日本の会社でも、数字とIRには強いが、そ の数字が生まれる現場にはまったく疎い経理担当者、コンビニエンスストアのバイヤーのことはよく知っているが、その先にいる顧客のことはまったく知らない 営業担当者、広告クリエイティブと媒体の最新事情には詳しいが、社内の開発者の熱い思いにはまったく無関心な宣伝担当者など、同様のケースに近い例は枚挙 に暇がない。 このような問題は、顧客志向の不在、専門化の弊害、部分最適化の弊害などととらえられることが 多いが、問題の本質はもっと根の深いところにある。会社は何のためにあるのか。社員はなぜ働くのか。会社にとって顧客とは何なのか。このような基本的問題 と深くかかわっているのである。 米国に住む人を「米国人」と一くくりでいえないように、「米国経営学」と一 言でくくるのには無理がある。しかしながら、米国のビジネススクールで用いられている主要なテキストを概観し、米国企業の経営者たちの発言に耳を傾け、ビ ジネス・プレスの論調を見ると、そこにはゆるぎない一つの傾向が見出されるのも事実である。 第一に、「会社 は何のためにあるのか」について、その見解は非常に明確である。会社は、企業価値総額、または利益の何らかの指標をできる限り高くするためにある。このよ うな考え方に異を唱える人は少ない。 ウォルト・ディズニーが若い社員に「君たちは『ゲスト』をちょっとうれ しくさせるために働いているのだ」と口癖のようにいっていたことも、スターバックスの創設者ハワード・シュルツが「私たちは、『サードプレース=家庭でも 会社でもない、誰もがゆっくりとくつろげる場所』を提供する」といったことも事実である。しかし、米国のほとんどの優秀な経営学者や凡庸な経営者で、「会 社は儲けるためにある」という信念に疑義をもつものはいない。 第二に、「社員はなぜ働くのか」という労働観 にも共通の傾向が見受けられる。企業活動の成果は、金銭ではかられるので、そこで得られたカネを、株主、経営者、社員で分け合い、それを元手に各人は幸せ な私生活を営むという図式がそれである。 個人レベルでは、会社に勤務している公的自己とそれ以外の時間の私 的自己は明確に分断されており、前者で稼いだ金を元手に後者の生活を豊かにするという生活観は大筋で間違ってはいない。これは、あとで見る「モノづくりと つくる人の人生が重なっている」という日本の職人の人生観と好対照を成している。 そのような考えの世界で は、勤労は原則として負の効用をもつもので、その対価として給与やボーナスが位置づけられている。社員はなるべく少ない苦労で多くの対価を受け取ろうと し、会社はなるべく少ない支出で社員の勤労成果を獲得しようとする。したがって、顧客を何人ホールに案内したか(または、何時間案内したか)で対価が決ま るレストランの受付係は、顧客に水を注ぐという余分な苦労を避けようとする。公的自己の分担で「顧客の苦労を探す」という部署が万が一割り当てられていな い限り、全員が「私の仕事ではない」といってしまうからである。 第三に、「会社にとって顧客とは何なのか」 という点でも共通性が見られる。多くの会社は、自社の売上げは市場の総需要にシェアをかけて決まると考えているため、個別の顧客にまで目がいくことは少な い。「顧客志向」を比較的まじめに受けとめている会社でさえ、一人一人の顧客のレベルで議論していようとも、せいぜい顧客は自分にとっての便益と価格を天 秤にかけて、商品の購入、非購入を決める「選択マシン」としてしかとらえられていない。 顧客にとって、商品 は客体であり、「ともに生きるパートナー」ではない。また、会社にとっても、顧客は毎回ゼロベースで選択行為を繰り返す単なるマシンであり、「ともに生き るパートナー」ではない。 このように、会社、社員、顧客に関するそれぞれ独特の世界観がぴたりと組み合わさ れると、冒頭に挙げたようなレストランの光景が生まれることになる。 もちろん、米国でも「人は金のみにて動 くものにあらず」という議論は多い。そこでは、社会学や心理学の成果を借りながら、連帯感、達成感、敬意などが社員のやる気や顧客の忠誠心を引き出すと いった議論がなされている。これは一見、「そうか、米国のビジネスもカネだけではないのか」と思わせる。しかし、よく見ていくと、そのような論調もほとん ど例外なく、「そうすることにより、企業の競争優位を高める」ということであり、最終的には、金銭的成果を上げる便法として位置づけられている。せっかく の人間性豊かな議論も、最後の落としどころでがっかりさせられてしまう。 この最後に「自分たちがどう儲ける か」に落とし込むところが、米国流の経営学の最後の砦である。経営学者や経営者が、どんなに人間の本質を突いた議論を展開しても、まったく残念なことに、 私たちの知る限り、この砦を崩すものはまだ現れてはいない。 多岐にわたる米国経営学のアプローチの中には、 ごく少数ではあるが、本書で主張する「反経営学」に非常に近い考え方のものもある。しかしながら、これらもよく読んでいくと、「会社が儲けるために は……」という目に見えない糸でつながれている。 そういえば、米国におけるブランド・マネジメント論の権 威、デビッド・アーカーから、「米国で講演するときには、必ず冒頭で『今日の話はあなたの企業価値向上にこんなにためになる』といって始めないと、会場に いる経営者の半分は席を立つ」と注意されたことがある。根は相当に深いのである。
2 作り手と使い手の対話
「米国経営学」の中心的仮定の一つは、は、会社(商品のつくり手) と顧客(商品の使い手)は互いに独立した個別の存在であり、また、いわゆる「マーケティング戦略」を駆使することによって、前者は後者をコントロールでき る、というものである。作り手にとって使い手は川を挟んで向こう側にいる客体で、その動きを司る物理法則(があるものと信じてそれ)を解き明かすことに よって、会社はそれをある程度自由に動かすことができる、ということが想定されている。そこでは、作り手も使い手も「ヒト」であるのは間違いないのだが、 互いに心を通わせたり、響きあったりする仲ではなく、物理現象として反応しあう原始的なロボットのような存在であると思われているのだ。 一方、われわれの世界では、作り手と使い手は生身の生きた人間で、片方がもう一方をコントロールするというのではなく、互いに商品を 介して対話をしながら心を通わせ、高まりあう存在だと考えられている。両者は、互いに独立した個別の存在ではなく、片方がなければもう一方も存在しないと いう意味で「一体」なのである。以下ではその意味するところを、多くの具体例を紹介しながら見てゆくことにする。 作り手も使い手も一人で独立には育たない。この両者の、モノを媒介にした張り詰めた対話が、いい作り手と厳しい使い手を同時に育てる。いい作り手の裏には いい使い手があり、いい使い手の裏にはいい作り手がある。また、逆も真なりである。 いい表裏でも、悪い表裏 でも、事態としては「一体」である。しかし、ここでいう「一体化」とは、作り手と使い手が一体であることの意味を認識し、積極的に両者が高まる仕組みを築 いていくことである。顧客を血のかよわない選択マシンとしてとらえ、そのニーズを調査などで把握しながら、その範囲で最適な商品、サービスを提供する米国 流のアプローチとは対極にある考え方である。
■ 荷物だけがなぜ一〇日もかかる:ヤマト運輸 作り手と使い手の対話は、作り手が、使い手が知らなかったいいものを届けることから始まる。日本の消費者向け小口物流サービスは、一 九七六年にヤマト運輸の始めた「宅急便」に端を発している。東京から大阪に小包を送るのに、一〇日かかるのが当たり前だと思っていた消費者に、日本全国ど こでも翌日配達というサービスが現れたのだから、日本中が驚いた。 やがて消費者は「翌日配達」が当たり前だ と思うようになるが、手ぶらでゴルフに行ける「ゴルフ宅急便」、手ぶらで空港に行ける「空港宅急便」などを矢継ぎ早に導入し、顧客を驚かせ続けている。現 在では、国内で一五種類のサービスを提供しながら、荷物の取扱いのていねいさでは一貫した評判を打ち立てている。この評判は、「運送行為は委託者の意思の 延長と知るべし(ヤマトが運ぶのは荷物ではなく、送り主の心である)」という経営哲学によるところが大きい。 当然のことながら、いいモノを知った使い手は、もはや同じモノでは感動しない。見る目が養われて、よりいいモノを求めるようになるからである。逆にいう と、使い手にいいモノを教えた作り手は、次にはもっといいモノを提供しなければならなくなる。 たとえば、I モードで音声通話以外の使い道を教わった携帯電話の使い手は、写メール、音楽ダウンロード、ワンセグ、お財布携帯など、要求を高度化させて、携帯電話会社 側の進歩が少しでも滞ると不満を募らせる。したがって、スポット的にヒット商品をつくる能力だけでは十分ではない。常に使い手をリードし、よりいいモノを 生み出し続ける「仕組み」が求められることになる。 「玄人」という言葉がある。玄人の「玄」は、黒い、暗い という意味である。つまり、素人に見えないものが見える人が玄人なのである。この文脈に戻すと、作り手は、使い手に対して常に玄人でなくてはならないので ある。 もちろん、玄人であるべき作り手にとって、厳しい使い手がいるということは、決して悪いことではな い。まず、作り手に暗黙の圧力がかかり、玄人さに磨きがかかる。また、使い手からの具体的な意見、提案が玄人に新しい刺激を与え、新しいいいものの開発に つながることも重要である。まさに厳しい使い手がいい作り手を育てるわけである。
■何も語らない大選手がバットづくりの名人を育てる:ミズノ イチロー、松井のバットをつくり続ける名人、久保田五十一氏は、まさに厳しい使い手に感動を与え続ける玄人の一人である。木を削り バットをつくり続けて四十七年。久保田氏は、一流のプロ野球選手から引っ張りだこのプロバットマイスターである。現代人が忘れてしまった勤勉さ、律義さ、 謙虚さが魅力となり、大リーグで活躍するイチロー、松井秀喜とも絶大なる信頼を寄せている。 付き合いは、二 人とも一九九二年のオフからで、イチローは大リーグでの五年連続二〇〇安打など、すべて同じ久保田氏のバットで打ち立てられた。松井は材質をアオダモから メープルに変えてから、快打を連発している。 久保田氏は順風満帆で今日を迎えたわけではない。そこには、選 手との二人三脚での歩みがあった。たとえば、阪急(現オリックス)の四番打者、長池徳士のバットづくりには苦労が絶えなかった。好みを聞いて腕を振るった バットを見て、長池は「これでは試合に使えない」といったきり、どこが悪いのか一切いわなかった「悔しかった」と、久保田氏は当時を述懐する。 どこをどうしていいのかわからなかった久保田氏は、削っては見せる度に突き返される日々を送っていた。そして、あることに気づいた。 「素材に勝る調理法はない」とはあるシェフの言葉だが、バットも同じである。木の癖を生かすことに気づいたのである。 幸いなことに、堅さやしなりなど、バットに最も適した北海道日高産のアオダモを会社が保有していた。「あのときの試練があったからいまがある。おかげでい いバットが生まれた」と、久保田氏は笑顔で語る。 高田、篠塚、谷沢、高木……。バットを納めた選手の名前 が、久保田氏の口をついて出る。吟味した素材を一ミリグラムの狂いもなく削り出す技は天下一品。これはまさに、厳しい使い手が作り手を育てた典型的な例で ある。
■文房 具の達人たちに学ぶ:伊東屋 東京、銀座の中央通に面して赤いクリップのマー クが輝くしゃれたお店がある。文房具ファンなら知らない人のいない伊東屋である。この伊東屋には、多くの厳しい顧客が出入りする。万年筆を熟知した達人、 原稿用紙にうるさい作家先生、手紙とカードのマナーに精通した粋人などである。伊藤会長自信も「いつも教わっている。私など足元にも及ばない」と舌を巻 く。しかし、厳しい顧客からの刺激が、伊東屋スタッフの感性を育て、達人たちも驚く店づくりを続けている。
■厳しい得意先が問屋を育てる:東海バネ工業 産業財の分野でも、顧客が作り手を育てることは多い。一つずつ顧客の固有のニーズに合わせて高品位のバネをつくる東海バネ工業では、 原材料の鋼材の品質がすべてを決めるという。在庫の少なさを誇る会社は多いが、東海バネ工業の渡辺良機社長は、いかにさまざまな寸法の鋼棒の在庫を抱えて いるかを自慢する。 鋼材の仕入先である鉄鋼問屋の社長は、「東海バネさんにはいつも最高の鋼材を最優先で卸 している。それでも間に合わない高度な要求が時々ある。とても勉強になります」と語る。東海バネ工業とこの鉄鋼問屋は「一体」なのである。
3 川上にもさかのぼる一体化
作り手から川下に向かっての一体化と同じように、作り手から川上に向かっての一体化も無視できない。(原材料の)作り手が(最終製品の作り手である)使い 手を育て、使い手が作り手を育てるという一体化の図式が同様に成立するからである。 先に紹介したバットづく り名人の久保田氏の原木へのこだわり、東海バネの高品位の鋼棒在庫などは、このいい例である。実は一体化を意識している優良会社のほとんどが、川下だけで はなく、川上の一体化にも心を配っている。逆にいうと、ここでいう川上の原材料調達と商品企画・製造の一体化は、それ自体だけではほとんど意味がない。川 下にいる顧客とつながったときに大きな意味をもつのである。
■ 原料と流通にこだわる:ハーゲンダッツ ハーゲンダッツの根強い人気は、おいしい商品と格好いい食生活の提案にあるが、それを支えている次の二つのことはあまり知られていな い。 一つは、工場から食卓にいたるまでの輸送車と店頭の冷蔵庫の温度管理である。これは原材料というより は、川上のサービスにあたる。この温度管理の厳格さは、他に類を見ない。トラックはマイナス二〇度、店頭はマイナス二六度以下でなければいけないという基 準を、メーカーの拘束力がない輸送業者や流通業者が守っているのである。「顧客のテーブルでのおいしさ」のために、メーカーと業者が一体となっているから こそ、できることであろう。 もう一つは、まさに原材料へのこだわりである。原乳は釧路の近くの厚岸浜中町の 牧場のものだけを使用して、その土壌の成分は年に何回か厳重なチェックが行われている。殺菌前のものを飲んでも、お腹をこわすことはない。牧場も、生産す る牛乳がどこで使われるかわからないというのでは、ここまでこだわる必要を感じないだろう。熱いこだわりをもつハーゲンダッツが買い手だからこそ、そこま でやるのである。ここでも、「顧客のテーブルでのおいしさ」のために、メーカーと供給業者とが一体化している。
■原料加工にこだわる:シマノ 世界自転車競技連合(UCI)の正式サプライヤーであるシマノも、川上との一体化を進める企業である。「シマノがここまで強くなるこ とができた原因がいくつかあるとしたら、冷間鍛造という原料加工技術は明らかにその一つだろう」と、シマノの元技術担当専務だった松本周三氏はいう。それ は、鉄を常温で加工することで高い精度と強度を両立させ、量産も可能にする当時としては夢のような技術で、シマノは一九六〇年に実用化している。 この技術開発の場合は、供給者が社内であるが、自転車レースという強度と精度を要求する厳しい使い手が、この技術を実用化に導き、そ の実用化がさらに使い手を鍛えるという流れで一体化が進んだのである。 これらの例のほかにも、IBIZAの皮 の原料、虎屋の小豆や砂糖、サントリーのウィスキー樽の原木など、原料の使い手である商品の作り手が、顧客のうれしさを実現するために、原料にこだわり、 その作り手と一体化する例は少なくない。
4 顧客に見えないものが見えるのが「玄人」
顧客は「問題」を多くもっているが、必ずしも適確な「解」をもっているわけではない。顧客の声を聞いて、そのまま商品をつくっても成 功しないのはそのためである。 住宅の床がカーペットからフローリングに変わり始めたときのことである。多く の主婦が、電気掃除機ではカーペットのときのように、きれいに掃除できないという悩みを抱えていた。しかし、この悩みを語ることはできても、どのようなも のがほしいのかを具体的に述べることはできなかった。花王が、ほこりを吸い取る紙雑巾をモップの先に取り付けた「クイックルワイパー」を発売したのは、ま さにそのようなときである。主婦たちは、「そうそう、こういうのがほしかったのよ」と歓喜した。 繰り返しに なるが、いい作り手は、顧客に見えないものが見える「玄人」でなくてはいけない。玄人とは暗いところが見える人のことである。いい作り手とは、普通の顧客 に見えないものが見えて、それを形にして届けることができる人である。クイックルワイパーの開発者は、まさに玄人だったことになる。 ただし、作り手は、最初から玄人であるわけはない。厳しい使い手や素晴らしいモノづくりの先輩に接することで、使い手としての自分を 磨きあげ、暗いところが見える「目」を養っていくのである。また、今日の玄人が明日も玄人でいられる保証はない。素人自身が日々体験を積み重ね、目を養っ ているからである。今日は玄人にしか見えなかったものが、明日には素人からも見えるものになっているかもしれないのである。 まず玄人は、素人に比べて圧倒的に多くの素晴らしいことを知っていなければならない。使い手が知らない素晴らしい体験を再現して提供することにより、使い 手は心地よい喜びを覚えるわけである。ただし、使い手の円も常に大きくなるので、そのような関係を維持するのは並大抵のことではない。したがって、いい作 り手は、それを保証する確固たる仕組みをもっていなければならない。その仕組みは、組織ごと、個人ごとに異なるが、次のようないくつか共通するポイントが ある。
■自分 も顧客:キリンビール、バンダイ 玄人の第一のポイントは、自分も顧客であるというところである。顧客の中でも他を圧して経験を積んだ、うるさい顧客でなければならない。顧客になって生活 することが重要で、紙とペンで市場を調査してはいけない。これは、「超顧客主義」と呼ぶ考え方で、『超顧客主義』(片平秀貴・古川一郎・阿部誠共著、東洋 経済新報社)で詳しく論じたところである。 これまでの経営学、特にマーケティングでは、この点を無視してき た。自分も顧客であることを忘れて、顧客を向こう側におき、未知なるものとして扱ってきたのである。日本のいい作り手は、とうの昔からこのことに気づいて いた。顧客としての自分を軸に、モノづくりをしているのである。 大企業でも、輝いている会社の多くは、これ に近いアプローチをとっている。カンチューハイに革命を起したキリンの氷結は、「出張帰りの新幹線で飲んでも恥ずかしくないアルコール飲料がほしい」とい う、若い女性開発者である佐野環氏の自らの思いから生まれた。 また、本格的サーフィン・ギアのブランド 「RealBVoice」が、玩具メーカーのバンダイのブランドであることを知る人は少ない。これは、執行役員の関野裕吉氏が自分の趣味を仕事にしようと 手がけたビジネスである。半端でないこだわりがあるだけに、多くのファンを獲得しつつある。いずれも、顧客としての自分を磨くことが原点になっている。
■ 顧客に負けない:スノーピーク、ヤマハ 顧客になって生活するといっても、さまざまなレベルがある。他の多くの顧客を驚かさなければいけないのだから、その分野に限れば、い つも他の顧客より濃い生活を心がけなければいけない。これが玄人の第二のポイントである。つまり、顧客よりもいい生活をして、うれしい、おいしい体験で顧 客に負けないことである。 アウトドアのキャンプ用品では世界のトップクラスの評価を獲得しているブランド 「スノーピーク」を育てた山井太社長は、「私は年間一五〇日余りをキャンプで暮らします。先日、ヨーロッパの同業者と話していたら、まったくかなわないと 舌を巻いていました」と語る。国内にとどまらず、海外の著名なところは大方制覇したという。その体験の中から、チタン製の軽いカップ、鍋類、山中塗りの入 れ子型食器セット、極小サイズのマイクロバーナーなど、思いもつかないアイデアが次々と生まれ、商品化されている。 また、ヤマハの楽器の開発に携わる人たちの多くは、自らもプロと肩を並べるミュージシャンである。管弦打楽器事業部の兼子義一氏もそのうちにもれず、ボサ ノヴァギターの名手である。二〇〇四年に、ボサノヴァの第一人者であるジョアン・ジルベルトが来日したとき、自ら企画してつくったボサノヴァギターを見せ たところ、絶賛され、コンサートで使ってもらったという。 兼子氏は、ヤマハのウェブサイトで、「私自身は、 大学でボサノヴァの演奏を始め、その頃から今日まで、ずっとギタリストの佐藤正美さんに師事してきました。ボサノヴァは、ギターで弾くと本当に面白いです よ」と語っている。このようなプロ並みの演奏家が、楽器制作の専門家でもあるのだから、頼もしいかぎりである。
■顧客に学ぶ:花王、トヨタ 自分ですべてを体験しようというのには無理がある。したがって、他人の体験をも自分のものにできれば、自分の玄人度はぐっと高まるこ とになる。玄人の第三のポイントは、顧客体験から学習することである。 花王では、定期的に家庭用品の開発担 当者が顧客の家庭を訪問して、キッチンや洗面所を見せてもらっている。訪問先では、普通の家庭の生活の様子が手にとるようにわかる。一人が二〇件訪問する と、生活体験の量は、自分の一件に加えて、断片的ではあるが、他にも二〇件獲得することができるのである。 こうして生まれた画期的な革新がある。キャップを下にした縦置きの歯磨きチューブである。これが開発されるまで、訪問先では、歯磨きチューブがコップに挿 すなどしてタテに置かれていた。そして、一番多く聞かされた不満は、「残りが少なくなると出しにくい」ということだった。これを知った開発担当者は、試行 錯誤の末、「逆さにしてタテにおけるようにすればいいのではないか」ということに気づいた。現在では、ほとんどの歯磨きチューブがこの形態をとっているだ けではなく、他の商品にも採用されている。たとえば、ケチャップのハインツは、この形態を採用した新製品で大成功している。 また、トヨタ自動車にも同じような事例がある。一九八〇年代後半、レクサスLS400で世界の高級車市場への参入を狙っていた。しかし、開発を担当した鈴 木一郎氏は、中心顧客になる米国の富裕層の生活が実感できなかった。鈴木氏にとっては「暗」だったのである。そこで鈴木氏は、直接富裕層の家庭を訪問し て、居間を見せてもらうことにした。プライバシーにうるさい米国では、さぞかし苦労したのであろうが、その奇策が今日のレクサスを生んだのである。鈴木氏 は、「そのときの体験が、インテリアのテイストを決める上ではかり知れない助けになった」と語る。 自分で目 一杯体験する。そして、足りなければ他人の体験もいただく。これを、休むことなく続ければ、玄人の地位もそう簡単に脅かされることはない。
5 複数のプロからなるチーム
どの分野のモノづくりでも、一人でできることはほとんどない。高度な工業製品になればなおさらである。いいモノづくりは、高度な技術から生まれるモノとし ての完成度に、使い手の心地よさが掛け合わさって完成する。そのためには、モノづくりのあらゆる段階で「使い手の心地よさ」という視点が入らなければいけ ない。 すべての工程の作り手が、使い手の心地よさという糸でつながり、全工程が「統体」にならなければいけ ない。全員が材料調達と各部門技術の玄人であると同時に、顧客の玄人になっていなければいけないのである。 複数の工程からなるモノづくりで、この全工程が統体になるのが「一体化」の極致であり、日本のモノづくりが最も得意とするところである。たとえば、浮世 絵、友禅、漆芸、陶芸などで、日本の美は伝統的に複数の工程のそれぞれを受け持つ専門職人たちの「腕」で支えられている。個々の部門の専門家は、多くの場 合、隣接する部門の経験があり、その個別の領域に閉じこもることなく、常に完成されたときの美を視野に入れながら仕事が行われているのである。
■私たちはチーム(1):東海バネ工 業、西島、虎屋 この伝統は、美の領域を離れて、工業製品のモノづくりの現場 にも強い影響を与えている。工業用バネの多品種微量生産で知られる東海バネでは、工場と顧客の距離を縮めるために、順番に生産担当を営業の仕事を経験させ ている。オーダーメイドの機械製造会社の西島でも同様に、設計部門で採用されても、必ず生産現場の経験をさせている。そうすることにより、設計に起因する 生産上のトラブルを削減できるからである。 また、和菓子の虎屋では、研究所、工場、本社、店頭の間の垣根が 非常に低い。毎年正月には、社員の多くが店頭に立つだけでなく、「和菓子オートクチュール」をつくり、工場の奥で働く職人が店頭で顧客の注文に応じる仕組 みを始めた。六本木ヒルズにあるトラヤカフェで店舗を取り仕切る米花匡伸氏は、本社の人事部出身である。社長の黒川光博社長は、虎屋は会社の壁を超えて一 つにならなければいけないと、次のように語る。
「お客様、原材料供給者など、われわれの商売に介在する人たちに『虎屋と仕事ができて満足だ』と思っていただける会社にしたい」 こういった統体の中にあって、一人一人の社員をやる気にさせるものは何だろうか。一人一人の仕事の成果に応じた金銭的報酬は機能しない。統体である以上、 成果を一人一人に分解できないからである。 社員は、米国流の経営学が想定しているような金銭的報酬最大化マ シンでは決してない。彼らは、もっと大人ではるかに品位ある人々である。彼らを動機づけているのは、仲間とともに仕事ができる喜びであり、一人ではできな い仕事を完成させる達成感であり、喜んだ顧客から受け取る感謝の言葉である。
■私たちはチーム(2):エイザイ アルツハイマー病の進行を遅らせる治療薬アリセプトは一九九七年に発売されて以来、世界中で多くの患者とその家族を救ってきた。その薬はなんと日本で開発 された。その開発をリードしたのは当時エイザイの研究所長だった京都大学大学院薬学研究科教授杉本八郎氏だった。この開発の成功はエイザイに年間一〇〇〇 億円を超える売上げをもたらしたのだが、それに対して、会社からかなりの額の報奨金を受け取った杉本氏は、それを開発チームのメンバーたちと均等に分け 合った。 「これは私一人の成果ではない。メンバー全員の血と汗の結晶だ」 そう語る杉本氏の精神性は、日本人には清清しく響く。しかし、これを米国の(そして日本の一部の)凡庸な経営者たちは、どのように聞くのだろうか。 自分本位にカネを追い求める会社、仕事と時間をカネで売る社員、サイコロでくじを引くように商品を買い、黙って立ち去る顧客。このよ うな米国流の経営学の「部品」は、それなりに互いにぴたりと噛み合い、数百ページに及ぶテキストに記述されるような壮大な「体系」をつくりあげてきた。 それを伝授する専門の教育機関(MBAコース)がつくられ、一人当たり述べ一〇〇〇時間を越えるスクーリングを経て、毎年多くの専門 家(MBA)が生まれている。これはビジネスの世界の一つの「体制」であるといっていい。 振り返って、今 日、日本で元気な会社を見ると、これとはまったく異なる考え方で動いていることがわかる。そこに共通しているのは、日本古来の「職商人道」に見られる人間 観、仕事観である。モノづくりに携わるすべての人が、つくったモノを使う人と「生きた人間として」一つになるということを出発点としている。この一つにな るということは、一言でいうと「作り手が使い手を育て、使い手が作り手を育てる」ということである。 まず、 いまよりもっといいモノを顧客に提供したいという強い思いが作り手にはある。この思いを、作り手が使い手を視野に入れながら実現し、極上のモノとして使い 手に届ける。使い手は、その素晴らしさに感謝すると同時に、いいモノを学び、結果として厳しい観察眼を養うことになる。その厳しい使い手の期待を上回るべ く、次のチャレンジが与えられ、この循環が繰り返される。この循環を通して、作り手と使い手がともに高まり、より強い絆で結ばれることになる。 このような考え方の会社では、経営者が「利潤追求」や「企業価値最大化」などの言葉を叫ぶことはまずない。ただ、非常に興味深いの は、これらの会社が「結果として」利益が高く、社員の満足も顧客の満足も非常に高いことである。 江戸初期に 職商人の考え方が広まったころ、よく「先議後利」という言葉が使われた。この言葉は、米国流の経営学の基本理念である「先利」と対極を成すものであるが、 その言葉には、日本、そして東洋の深い「知」を見ることができよう。 (本記事は『反経営学の経営』(常盤文 克・片平秀貴・古川一郎 東洋経済新報社)より抜粋、加工して掲載したものです。著作権は著者にあります。) |