『反経営学の経営』第1章 新しい日本型経営を探る

第1章 新しい日本型経営を探る

1 モノには作り手の心が 宿る
 本書で議論する「反経営学の経営」とは何か。それを理解してもらうために、その対極にあるいわゆる「経営学」が提唱するそれと対比し ながら明らかにしておこう。

 経営学と一言にいっても、その問題領域は実に多様かつ広範で、研究の蓄積も膨大 である。しかし、本書の議論の対極にある考え方や基本的な前提条件をもつ経営学は、現在の日本のビジネスの中でも中心を成している米国の主流派経営学であ る。米国のビジネススクールで教えられている経営学と言ってもいい。以下、経営学というときは、米国の主流派経営学をさす。

  経営学では、客観的に測定可能な事実を主たるよりどころとして理論を構築している。つまり、そこでは本来、経営を行っていく上で重要な役割を果たしている 企業の哲学・文化・価値観といった価値判断の問題につていは、極力深入りしないかたちで議論が展開されている。

  西欧の科学的なアプローチでは、「観察・測定する」「分類する」「比較する」「因果関係を推論する」「(実験により)検証する」といった一連のプロセスを 踏むために、体系的な測定や比較することが難しい側面を極力排除してしまう。実際には、企業を観察する視点は多様であるにもかかわらず、この中から世界中 の企業を比較することが可能な尺度が選ばれているのである。

 さらに、経営戦略がビジネスを行っていく環境を 選択し、その環境の不確実性に合わせて組織構造を設計するという論理モデルに基づいた研究が進み、測定可能な優れた成果を上げる戦略、すなわち事業領域の 選択が議論の中で重要な位置を占めている。このようなアプローチは現在でも、多くの研究者のみならず、MBA(経営学修士コース)の学生をはじめ、世界中 のビジネスマンに大きな影響を与えている。

 では、ヒト、モノ、カネ、組織の目標といった観点から、本書のい う反経営学の世界と、経営学のそれとの相違点を明らかにしておきたい。

 経営学の一般常識では、生産されたモ ノはただの物質である。そのただの物質、あるいは客観的な製品特性が、顧客に満足を与える源泉になる。経営学の標準的な教科書では、競争他社と比較してモ ノの特徴が語られる。もちろん、客観的な製品特性が、顧客の求める機能的な側面を満たしていなければならない。

  ただし、それに加えて、本書のいう反経営学の世界では、モノにはつくる人の思いが込められていると考えている。見る人が見れば、モノに込められた思いを感 じ、読み取ることができる。作り手の思いのこもったモノは、正しく伝わると、使う人に物質的な満足ばかりでなく、感謝や感動の心も生み出すのである。

 このモノに精神が宿るという〝非科学的〟とも思える発想は、近代科学を志向した米国の経営学にはない。ましてや、つくられた〝モノが 語る〟という考えなど及びもしないだろう。だが、心を込めてつくった優れたモノが顧客の心を打つことはよくある。また、職人が一生懸命がんばってつくった モノは、作り手の手を離れたときから、「できがよかったかどうか」と、作り手自身の心にも語り始めるのである。

  ただの物質と考えるか、モノに心が宿ると考えるかによって、モノとヒトとのかかわり合いも変わってくる。一般に経営学の常識では、売り手と買い手の関係を 物質と金銭を交換する無機質な関係と考えている。すなわち、一円でも安く買いたい顧客と、一円でも高く売りたい企業という二者対立の関係を前提としている のである。そこでは、モノはただの物質にしかすぎず、金銭により所有権が移ってしまったあとは、買い手の自由、捨てようが何をしようが問題にならない。

 これに対して、本書で反経営学と呼ぶ世界では、本来、作り手(売り手)と使い手(買い手)は二者対立の関係ではないと考えている。作 り手が存在しなければ使い手は存在し得ないし、その逆も真である。モノを介在して対話し、お互いによりよい関係を模索していく関係を構想することが重要で ある。

 このように考える立場からは、法律的には罪にならなくても、モノをぞんざいに扱うような行為は、作り 手の心を踏みにじる点で、心情的には許されざるべき行為である。モノをただの物質と考えてしまっては、このような思いにいたることはないだろう。

 モノに対する見方は、作り手に対する考え方にも大きな違いをもたらす。米国流の経営学では、簡略化の危険を恐れずに言えば、企業で働 く人は外的な刺激(特に金銭)に動機づけられて、受動的に働く生産関数の一要素として扱われている。モノがただの物質であるのと同様に、それをつくる人も 単なる労働力という「資源」として考えられている。つまり、人は仕事に人生を重ねることはないから、仕事に惹きつけるためにいかにして動機づけるかが問題 となる。ここでは、経営者としては一円でも安く資源を調達したいし、労働者は一円でも高く売りたいと考えるから、労働者と経営者は二者対立の関係にある。

 それに対して、反経営学の世界では、作り手を自分の目指すべきモノづくりに向かって熱中する内発的に動機づけられた生きた人間であ り、会社にとって大事な「資産」であると考える。作り手は、自分のやりたいことに主体的・能動的に取り組んでいるときには、仕事と人生を分けて考えていな い。

 人は熱中してモノづくりに打ち込めば、仕事を通じて成長するが、漫然と仕事に取り組んでいれば退化する こともある。働く人にとって、会社がなければ熱中する対象となる仕事は存在しない。一方、成長した人が新たなモノづくりを支えていくのだから、会社が成長 するためには、経営者は働く人が仕事を通して成長することを考えることが重要である。このような状況では、経営者と労働者も決して二者対立の関係にはなら ない。

 このように、ヒト、モノ、カネの関係を対比させてみると、反経営学の経営では、企業そのものをとらえ る見方が根本的に異なっていることがわかるだろう。

 

 

2 経営を統体として考える

 

 企業を取り巻く内外の環境は日々変化している。会社法関連の改正などで会社の起業が容易になり、M&Aや企業合併などについての規制 も格段に緩やかになった。企業をカネで売買する自由度が、米国並みに増大したといえる。近年は、企業の合併や買収がひんぱんに行われ、そこに介在する投資 ファンドの活動も目立つ。

 投資ファンドの関心は、もっぱら企業を売買する際の金銭価値にある。会社を買収し ても、自ら経営しようという意思はもっていない。買収した会社は、株価が上がればすぐにでも売り抜こうとするのが、彼らのビジネスである。

 しかし、企業価値を発行済み株数×株価(時価)という金銭価値でのみで評価しようとする彼らの考え方には、何か なじめないものがあると感じているのは、われわれだけではないのではないだろうか。特に、モノづくりをコツコツと地道に手がけてきた人なら、余計に違和感 をもつのではないだろうか。

 そこでは、ステークホルダー(企業を取り巻く利害関係者)のうち株主だけがク ローズアップされ、それ以外の、たとえば会社の仕事を通して自分の夢や思いを実現しようと考えている社員たち、さらには数多くの協力会社や取引先のことは 考慮の外にあるからである。この釈然としない思いは、先にも述べたように、利益を重視し、株価第一主義に傾きがちな米国の主流派経営学に対する疑問でもあ る。

 多くの日本企業は、二〇世紀後半、米国の先端科学技術や生産技術、経営手法などを貪欲に学び、懸命に経 営の近代化をはかってきた。ドライではあるが、合理性、効率性、利益性を重視する米国型経営を、日本の企業はそれぞれの社風にあったやり方で、消化・吸収 し、成長してきた。それはまだ資本の移動が各国の通貨管理制度の下で制限され、モノとサービスの貿易の自由化が先行していた時代のことである。

 ところが、一九七〇年代に世界主要国の通貨が変動相場制に移行すると、お手本としてきた米国経済が変容する。世界各国で資本取引の制 限が撤廃され始めると、モノやサービスの取引を中心とした経済から、次第に、株、債券、為替など、投機を含む金融取引が突出する経済へと変質していったの である。

 この傾向は、一九八五年のプラザ合意以降に顕著になり、資本取引市場におけるジョージ・ソロスなど の投資ファンドの暗躍も目立つようになった。海外売上比率の高い企業が、自助努力だけではどうにもできない為替レートの変動に翻弄されるのは、この時期か らである。

 英国の経済学者スーザン・ストレンジは、実体経済を振り回すマネー経済の動きを「カジノ資本主 義」と呼んで、早くから警鐘を鳴らしていた。しかし、一九九〇年代後半から二〇〇一年九月の同時多発テロ発生まで、ウォール街が株価高騰で異様な狂騒に包 まれていたことは記憶に新しい。このマネーゲームの主要プレーヤーとして活躍したジョージ・ソロスでさえも、後日、この狂騒に陥れた経済思想を「市場原理 主義」と批判しているほどである。

 マネー経済が勢いを増した背景には、オフィスにいながらにして、瞬時に世 界各地と電子情報をやり取りできるコンピュータ情報通信網のグローバルな整備・拡充がある。これを基盤に、資本の国際移動の自由化を柱とするグローバリ ゼーションの波が、全世界を覆ったことも見逃せない要因であろう。

 しかし、米国がマネー経済へと傾斜して いったのは、IT(情報技術)の発達や資本取引市場のグルーバルな拡大といった外的要因だけではない。米国型経営の根底を流れる思想の中に、市場原理主義 的な内的要因が遺伝子のように組み込まれていることも見落としてはならない。一例を挙げると、米国のさる著名な経営学者は、数年前、日本で行った講演の中 で次のように述べている。

「他の企業に比べて、高い収益を実現するには二つの方法しかない。つまり、高くても 売れるように考えるか(差別化)、低コストを実現するかである」

 この考え方では、企業がどのような使命感や 理念をもって活動をしているのかという経営のビジョンや哲学の重要性が表立って議論されることはない。もちろん、作り手・売り手(製造業者・流通業者)と 買い手・使い手(顧客・消費者)が、モノやサービスの取引を通じて喜びを共有するという側面が考慮されることはない。最重要視されるのは、数値化できる収 益性だけである。

 一般に経営学では、企業は金を産み出すための装置としてとらえられている。だから、株主主 権を前提として、一円でも多くの利益を上げ、株主のために金銭的に評価される企業価値を上げることが究極の目標として設定されている。そして、その目標を 阻害する要因を少しでも減らすために、組織や戦略について考察される。たとえば、競争相手に勝ち、利潤率を上げるために、製品差別化や低コスト化を選択す ることが重要であるといった議論がなされる。

 この考え方は、目的と手段の因果関係は直線的であり、理解しや すい。しかし、次の目的につながっていくような循環が起こることはない。競争相手に勝つことが目的である限り、その競争に勝ってしまったら、目標を見失っ てしまうからである。

 また、それぞれの目的が、カネという単一の尺度で評価されるため、顧客、企業、従業 員、経営者、株主、それぞれの利害が往々にして対立してしまう。ただし、それと引き換えに、それぞれの主体が独立しているため、顧客と企業というように、 一つ一つの部分を別々に考察することが可能になっている。

 それに対して、われわれの言う反経営学の経営で は、会社を作り手と使い手の夢を同時に実現するために、多くの関係者が携わる、一つの小さな社会であると考えている。部分ではなく、統体として考える視点 を重要にしているのである。そしてここでは、カネは次なる活動のための手段であり、目的ではない。作り手がモノに込めた思いが顧客に伝わることで、顧客が 感動し、喜ぶ。利益は、その結果としてついてくるのである。

 さらに、作り手と使い手が対話し、交流を続ける ことで、新たな革新につながっていく。このことが、作り手と使い手の絆を強め、新たな利益を生み出していく。このように、目的と手段の関係が循環的であ り、収益を生み出し続けるプロセスまで踏み込んで議論することができる。決して、利益を上げるために顧客を喜ばせるのではない。

  鶏と卵とどちらが先かという議論と同じで、人々の行為と結果は関連しているので二つの世界を区別することは難しい。しかし、最初の一歩をどちらの方向に踏 み出すかによって、大きな違いが生じる。

 顧客、企業、従業員、経営者、株主といった主体は、実際には金銭的 な関係を超えたさまざまな関連性を持ち得る。必ずしも二項対立の関係に陥ることない。お互いに協力し助け合うことにより、全体としてよりよい成果を生み出 す可能性があるのである。金を究極の目標にするか、日々の経営の実践の中から生まれてくる夢の実現を究極の目標にするかで、関連する主体の関係のあり方は 変わってくるのである。

 もちろん、資本主義体制のもとで、全体最適を実現するのは必ずしも容易ではない。金 の魔力はとても強いからである。だが、この魔力に打ち勝って、素晴らしい成果を上げているのが、元気な日本の中小企業である。これらの会社のモノづくりの 現場には、反経営学の経営ともいうべき、新しい日本型の経営モデルを探る可能性が秘められている。

 ここで注 意しておきたいのは、中小企業というと一般には大企業よりも一段低く見られがちだが、決してそうではない。現実には、大企業を凌ぐ中小企業もたくさんあ る。大企業を支えているのは、中小企業であり、大は中小なしでは存在し得ないのである。この事実をしっかりと受けとめておかねばならない。大・中・小は、 企業の規模の違いであって、会社の能力・技術・価値の差ではない。

 

 

3 夢に中心をおく中小企業の経営に学 ぶ

 

 日本経 済は、ようやく長いデフレ不況から回復した。多くの産業分野で懸案だった三つの過剰(雇用・設備・負債)は、解消できたようである。しかし、それはバブル の後始末を終えたにすぎない。つまり、日本経済は、次なる新たな成長発展の機会を得るための体力を取り戻したということにすぎないのである。

 日本経済は、これからどこに向かって進むべきか。個々の企業にとっては、それがどんな分野の、どんな技術に基づく、どんな製品やサー ビスの開発をすればいいのか。もっと大きくとらえるならば、人々が生き甲斐をもって働けるシステムとは何か。今後の持続的成長と活力のある経済を築いてい くためには、二一世型の新たな成長のエンジンが必要であろう。だが、まだはっきりとした方向性が見えていないのが実情である。

  企業が持続的に事業をしていくためには、適切な収益の確保は欠かせないことは事実である。モノやサービスの取引によって一定の収益を得なければ、継続的な 再生産ができず、存続できなくなる。だが、やはり利益追求が第一義的な目的ではないだろう。

 企業という組織 は、社会が必要とするモノやサービスを提供し、人々の生活を豊かにしていくことに貢献する、そのためにこそ存在するのではないか。また、作り手と使い手、 また売り手と買い手は対立概念ではなく、同じ社会の構成者として一体的に考えていくべきではないだろうか。米国型経営の根底に流れる考え方には、そのこと がすっぽりと抜け落ちているように思えてならないのである。

 企業経営の基本にそうした利益追求第一の思想が あるだけに、米国全体がマネー経済主導に変質していったのは、自然の流れだったのかもしれない。さらに問題なことは、この変化が日本の企業経営のあり方に もかなりの影響を与えたことである。特に、一九九〇年代後半から一連の金融改革が実施されてから、その影響が顕著になった。資金調達を従来の銀行依存型の 間接金融から資本市場での直接金融に切り替える企業が増えたのである。

 外人投資家が、日本企業の株や社債を どんどん買うようになると、「会社は投資家(株主)のものであり、とにかく利益を上げて株主に還元することが大事」という考え方が強くなった。投資家(株 主)は、株式や社債などの投資に必要な情報を求めて、従来以上に企業に情報開示を求めるようになった。また、企業統治の仕組みも、より株主の声を反映でき るように変わった。さらに、子会社を含めた連結決算が義務づけられ、経理や財務の透明性が厳しく問われるようになった。

  それはそれで新しい改革だったが、反面で短期的な株価の動きばかりを気にして、目先の実績や利益を求めすぎるという弊害も現れている。極端な例では、見か けの決算数字をよくして、株価を維持しようとする会計操作の不祥事も起きるようになった。 

 実は、大企業に なればなるほど、企業本来の存在理由が忘れ去られて、カネ重視の米国型経営の影響を受けているのではないか、という危惧がぬぐえきれない。米国型経営は、 米国の文化、風土の中で生まれたもので、それを何の工夫もなく無媒介に日本の企業に移植すれば混乱するのは当然である。

  一方で、あくまでも独自のビジネスモデルにこだわりながら社会的使命を果たそうとしている中小企業は、日本的経営のよさを色濃く残し、かえって業績も伸ば している。活気あふれる中小企業は、集団として夢、ロマンを共有し、その実現に向かって全員で挑戦する。しかも、社員の家族を含めて大事にし、根っこに 「人の温もり」がある。利益至上主義でカネを中心におく米国型経営とは一線を画し、人を、夢を中心におく経営がそこにある。

  会社とは、夢を実現させる仕組みを備えた「ボックス=母体」であり、そこに働く人たちは、仕事と人生を重ね合わせて生きている。そのような人間に基軸をお く経営、長期的視野に立った経営、個を集団の力へと統合する経営など、日本に根付いているこうした経営思想が、もし米国流のカネ中心の経営に圧されて消え てしまうとしたら、日本企業の最も良質な部分が失われてしまうことになる。

 そんな危機感を込めて、あらため て大きな夢や熱い思いに中心をおく中小企業の生き方に学びながら、日本的経営の良質な部分を確認し、それを継承しながら新しい形で生かせないものか。これ からの経営を考える原点になる考え方をまとめてみたい。このことが本書の一番目のテーマである。

 ただし、 「日本的経営」という言葉は、すでに使い古された印象がある。アベグレン流にいえば、それは「終身雇用、年功序列、企業内組合」の三点セットだが、日本企 業の海外生産拠点がますます増えていく時代にあって、この三点セットがそのまま二一世紀型モデルになるとは思えない。やはり、新しい形の日本的経営を構想 しなければならない。

 これからの経営に最低限求められるのは、長期的な雇用が約束され、仕事と人生を重ね合 わせて働くことができる職場であろう。よく、企業は熟練工、ベテラン職人を大事にせよと言うが、それはヒトを大事にすることと同意義であり、それには長期 雇用が欠かせない。その問題意識を念頭におきながら、さまざまな角度から掘り下げてみたい。

 

 

4 西洋の知と東洋の知の融合

 

 米国型経営の根底には、作り手と使い手、あるいは売り手と買い手と いうように、ものごとを二分化し、二項対立でとらえる思考法がある。これはある意味では、西洋的思考あるいは西洋の知が抱える宿命といってよいかもしれな い。

 米国の社会心理学者R・E・ニスベットは、著書『木を見る西洋人、森を見る東洋人』で、「日本人を含め て東洋人のものの見方は〝包括的〟だが、西洋(欧米)人のそれは〝分析的〟である」と述べている。

 ニスベッ トが行ったいくつかの心理学実験の結果では、ある対象物を観察する際に、西洋人は周囲から切り離されたその対象物だけを単独で見て分析するが、東洋人は周 囲の諸物との関係性に目がいき、ひとまとまりの世界として包括的に認識するという。つまり、森を見たとき、西洋人は大木を見つめるのに対し、東洋人は森全 体を見渡すというのである。

 また、世界を「直線」であると見る西洋人は、ものごとには始めがあって終わりが あると考える。西洋の思考様式・西洋の知は、どうも直線的、分析的にできているらしい。これに対して、世界は「円」であると見る東洋人は、ものごとは絶え ず変化しながら循環し、初めの中に終わりが内胎されており、終わりの中には次なる始めの萌芽が含まれていると考える。

  このことは、西洋と東洋の医学の違いを見るとよりはっきりする。近代の西洋医学は、身体の臓器や部位、症状ごとに病気を細分化し、それぞれの症状に応じた 薬剤と対症療法を開発してきた。その結果、専門以外のことには関心が薄く、「人間を診るよりも臓器を診る」という専門医が生まれた。

 これに対して東洋医学では、病気を統体(身体を一つのシステムとしてとらえる)の乱れとみなし、生体のバランスの回復を治療の基本に おいている。つまりは、身体をどこまでも細分化する分析的な西洋の知と、統体としてとらえる東洋の知の違いが、医学の分野で鮮明に反映されているのであ る。

 また、社会思想に目を向けると、よく旧ソ連の官僚的共産主義と米国の市場原理主義は、西欧思想が生んだ 鬼っ子だといわれる。国家(規制)対市場(自由)という二項対立から出発して、どちらかに純化していこうという性急な思考である。極端に走るところは、い かにもよく似ている。行き着くところ、イデオロギー過剰の共産主義や利己過剰の市場主義になるのだろう。

 新 しい経営の流れをつくりだすには、このような二項対立の呪縛から逃れる必要がある。そのためには、根本の考え方を西洋の知にのみ求めていては不十分であろ う。知は西洋だけにあるののではない。東洋にも西洋に優とも劣らない、すばらしい知がある。

東洋の知にも新た な鉱脈を見出し、東西の知を融合した「第三の知」を構想すべきではないだろうか。ただし、西洋にかわって東洋の知というのではない。東西互いに勝れている ところはさらに伸ばし、欠けているところ、学ぶべきところは補い合いながら、第三の知を創り出していくのである。これが本書で追究する二番目のテーマであ る。東洋の知といえば、源流にあるのが中国の古代自然哲学ともいえる「易」の思想だが、これについては第7章で詳しく述べることにしよう。

 

 

5  職商人の「いちば」思考

 

  日本的経営を見直すにしても、どこに焦点を当てていくかという問題がある。本書では、特に日本の歴史的風土の中で培われてきた「職商人(しょくあきんど) の精神」に焦点を当てることで、掘り下げてみたい。これが本書の三番目のテーマである。

 職商人とは、職人と 商人の器量を兼ね備えている人をさす。すなわち、モノを作る人、売る人、使う人の三者の立場を統体的に見渡すことのできる人のことである。そこでは、三者 は対立的な関係ではなく、モノやサービスが生産され、販売されて、消費されるまでの連続したプロセスの中で、ともに喜びを共有する一体的な関係にある。そ の概念をまとめると、次のようになる。

 

  • モノを自ら作って売る。だが、決して売り放しではない。
  • 自分の顧客を思う心をモノに込めて作る。
  • モノを通して、顧客と対話し、心をかよわせる。
  • 「作る」と「売る」と「使う」の循環を大切にする。
  • 顧客とは一体で、同一線上に立っ てはうるが、顧客より常に一歩先を行き、顧客の要望を超えたものを提供することで、顧客に驚きと喜び、そして幸せを与える、という精神である。

 

 参考までに、京都小売商業支援センター のウェブサイトで、職商人のふるさとの一つ、京都の職商人たちは、その本質を次のように語っている。

 

  • 京の職商人は、お客様に本物(安心感と幸福感)を手にして欲しいという心を大事にして商売(あきない)をし ています。
  • 京ものは、伝統に培われた巧みの技・職人魂と使い手の心が融合し、買った人が使うほどに暮らし になじみ、愛着が芽生え、心を豊かにします。これが本物の値打ち。ともに感謝。
  • 作る喜び、売る喜び、買う 喜び、使う喜びを分かち合える心と本物を看る目を養い、安物に生きないで上等に生きよう―堪忍―

 

 この職商人のイメージとして、もう少し身近なところでわかりやすいのは、地方に行くとよく町の大通りや広場などで開かれている朝市の 光景であろう。地元の農家の主婦たちが、早朝に収穫してきたばかりの野菜や果物、搗きたての餅、赤飯、煮物、漬物、菓子、海産物、その他の地域特産品など を並べて、楽しそうに売っている。

 その土地の暮らしの風情が滲み出ていて、市場(いちば)を何かないかと きょろきょろして歩いている買い物客のほうも楽しげである。作った人が直接売っているのだから、これは職商人の原初の形と見ることができる。

 それと同時に、市場の原点についても考えさせられる。この朝市では、売り手(作り手)と買い手(使い手)が単に集まって売買をしてい るだけでない、いろいろな情報の交換もあわせて行われているのである。作り手は、自分のつくったモノに対するお客の評価を直接聞くことで、自分のモノづく りを振り返る折りにもなる。どんなモノをお客が望んでいるのか、それぞれのお客の好みもわかってくる。

 一 方、お客のほうも、「この野菜は、いまの季節だったらこういう料理をするとおいしいよ」といった助言を受けられる。作り手からいえば、商品のおいしい食べ 方や上手な料理法を、お客に直接提案できる機会でもある。お客と直接顔を合わせてのやり取りなので、ウソはつけない。このように、市場では、作り手と買い 手(お客)の〝生活の知恵〟が交換されている。大げさに言うと、暮らしの文化創造の場になっているのである。

  このように見ていくと、同じ市場という漢字を使っていても、マーケティング用語などで使われる「しじょう」と、朝市のような「いちば」とでは、大きな違い があることに気がつく。

 前者は、あたかも市場(しじょう)という実体が、私たちの外にあるかのように、外在 化してとらえている。そこで重要視されるのは、売買されたモノの金額と数量だけという「しじょう思考」が支配している。

  ところが後者では、モノの作り手と買い手が同じ場に立って、ともに「いちば」を成り立たせている構成員という意識がある。そして、双方のダイナミックな知 の交流の場になっている。我が身を「いちば」の中において内在的にとらえる「いちば思考」が、そこにあるといっていいだろう。

  この「いちば思考」は、朝市でなくても、町の商店街にもある。毎日パンを焼いて、いつもお客と対話しながらパンの出来具合を気にしているパン屋さんなど が、まさにそうである。「おいしかったよ」「今日のはちょっと硬かった」「焼きすぎだ」などといったお客の声を聞いて、「では生地の作り方や焼き方をもう 少し工夫してみよう」と、いろいろな練り方や焼き方、製法を試みる。お客はほとんどが顔見知りで、会話の中からおいしいパンが生まれてくるモノづくりを目 指している。

 時には、お客から「こんなパンを焼いてみたらどう?」と提案が出てくる。このような作り手(売 り手)とお客が一体になって、店が知のプラットフォームになると、両者の間には壁がなくなる。その信頼関係と、それゆえにそれを裏切ることはできないとい う緊張感の狭間で、パン屋さんには「おいしいパンを焼いてみんなに喜んでもらおう」という気持ちが生まれる。そして、そのために少しでも努力しようという 意欲が湧いてくるのである。

 そこには、産業が近代化して、巨大化していく過程で置き忘れてきた作り手(売り 手)とお客(買い手)の人間的ふれあい、心の交流が残っているといえよう。大げさにいえば、いまはパンの製造・販売も大手業者が出現し、製造業と小売業に 分離しているが、ほんの三〇~四〇年前までは、町のパン屋さんのように、ほとんどが職商人だったのである。

  そこで、今日のように社会的分業が発達する前の原初形態の職商人に学ぶことで、これからの経営の方向性として、新しい職商人モデルというべきものをつくり だせないかというのが、われわれの率直な思いである。現に、元気な中小企業を見ていると、この職商人原理がほぼそのままのかたちで息づいているのがわか り、大いに勇気づけられる。