片平秀貴
社員を動かし、顧客に働きかけた「コトづくり」
今のサムスンの躍進は、李健煕会長が1993年に発表した「新経営」にさかのぼることができます。このままでは、いつまでも日本の電機・電子産業を追い越すことができない、という非常に強い危機感を持った李会長は1993年夏、突然訪問先のフランクフルトで「新経営」宣言を発表しました。それは、サムスンが「イノベーション」、「人材育成」、「人格形成」の三つを軸に、世界のリーダー企業に変身してゆこうという不退転の決意を表したものでした。その後、十余年たって今日、世界で最も注目すべきブランドの一つになったのは周知のとおりです。
この「新経営」の哲学は、ブランドづくりの王道と重なる面をいくつも持っています。ブランドづくりはいわば、「人々の頭にシワを刻むこと」です。したがって、ブランドができあがる場合には、製品だけでなく、その背景となった文化や歴史、さらに製品の生い立ちまでがワンセットで提供され、顧客に強い印象や忘れがたい体験を与える必要があります。
サムスンが新経営で行った企業の変革はブランドづくりへの第一歩だったのではないかと見ることができます。まず社員一人ひとりの頭に深いシワを刻まなければ、顧客のシワは生まれません。李健熙会長は「新経営」に着手したとき、まず経営者全員をフランクフルトに呼び寄せ、長時間のミーティングを行ったといいます。非日常的な状況の設定、つまり「コトづくり」によって危機感を共有し、社員を覚醒させたのです。これが通常のように本社の会議室で行われていたら尋常でない危機感が生まれていたでしょうか。
2003年9月、国際経営者協会で講演をしたサムスン電子副会長の尹鍾龍(ユンヨンジョン)氏は、サムスンが90年代半ばMBA(経営学修士)の採用を10倍に拡大したという話をされました。そのときに同氏は社員全員に「奥さん以外は全部変えよ」と言ったそうです。中途半端な変革ではなく、変えるときは一気に変えなければ元へ戻ってしまいます。徐々に言い続けても、言葉だけで終わってしまいます。
サムスン製品が高品質ブランドとして定着した背景には、デザインやコミュニケーションの品質、マーケティングの一貫性といった基本的な要素のほかに、こうした「コトづくり」の発想が活きています。1988年、サムスン電子はソウルオリンピックからワールドワイド公式スポンサーとして参加し、製品の品質を世界に伝えると同時に、ひとつの「祭り」を成功させるため全社一丸になるという経験をしました。
98年、サムスンはシリコンバレーで企業を経営していたエリック・キム氏をマーケティングの最高責任者として招聘します。このときキム氏は、ブランドの重要性を認識していた尹副会長にブランド・マーケティングの方法論を伝えたといいます。尹副会長はその知識をもとに、積極的なブランド戦略を展開しました。たとえば広告はテレビのCMばかりに頼らず、地下鉄構内、スタジアム、携帯電話などと、人々の生活動線に沿って配置しました。サムスンのマーケティング・ポリシー、“Think of the market, act for the customer”(市場について考え、お客様に働きかけろ)のうち、より重要な「お客様に働きかけろ」の方法がわかってきたのがこの時期でした。私の見たところ、サムスン製品の品質が欧米で真に評価されたのは、その翌年の99年からだったかと思います。
「私」を脱した経営者のリーダーシップ
このような方法論の一方で、「新経営」が根本的に重んじていたのは「人間味」や「礼儀」です。一般に経営者が改革を唱える場合、こういう内面的な言葉は出てきません。「イノベーションの実現」とか、「R&Dの強化」といったスローガンを掲げるものです。またその目指すところも、「株価を倍にしたい」といった明らかに経営者本位のものが多いようです。
ところが李健熙会長は違っていました。「新経営」にあたり、「これは私のための改革ではない。あなた方のための改革なのだ」と明言しています。それはつまり、「私自身は富も名声もいらない。サムスンが『量』の経営を続けたときに困るのは社員一人ひとり、ユーザー一人ひとりなのだから、あなたたちが自己の『質』を高め、その『質』によりユーザーをもっと幸せにしてゆかなければならない。その根本に共通するのが『礼儀』や『人間味』なのだ」という考え方です。この点を最初に訴えたからこそ、彼のメッセージは全社に浸透したのだと思います。
最先端の技術やブランド・マーケティングの方法を展開する一方、こうした東洋的な知恵も実践しているところをみると、李会長という人は単なる優秀な経営者を越えて、「韓魂洋才のリーダー」と言っていいでしょう。強力なブランドをもち、社員を活性化して異様なまでのパフォーマンスを発揮している組織のリーダーたちには、実はこうしたタイプが多いようです。『ビジョナリー・カンパニー』の共著者の一人、ジェームズ・C・コリンズ氏は、経営者のランクを5水準に分け、最高水準の経営者は他の4水準に比べ、「謙虚さ」と「不屈の実行力」をもつ点で異なっていると述べています。同様に私も2つだけ挙げるとすれば、それは「社員が礼儀正しいこと」、そして「トイレが(不必要なまでに)きれいなこと」です。些細なことのように見えますが、これは真実で、実際にはそういうところに企業や経営者の本質が表れるものです。サムスンもこの2つの基準を十分にクリアしているに違いありません。
今後の課題ですが、2つのことが頭に浮かびます。まず、ブランドを育てるためには、経営者も社員も「自社ブランドの熱烈なファンになること」そして「お客様の喜ぶ顔を何よりの糧とすること」の2つが求められます。私の少ない経験では、サムスンの皆さんはどちらかというとまじめな技術者タイプで、この2つの点についてはあともう少しかな、という感じがしています。特に2番目については、「ユーザーのうれしさを皆で分け合う」という小さな成功体験を積み重ねることにより成長できるのではないかと思います。
もう一つは、単なる「優秀な製品」に独自の哲学を込める、という点です。「サムスン製品が傍にあるとこんなふうに暮らしが変わる」といった部分を具体的に煮詰めて積極的に発信することでしょう。サムスン経営に込めた李会長の思い、そして社員一人ひとりが製品に込めた夢を大事に育て上げ、世界のユーザーに発信し続ければ、さすがサムスン・ブランドは違う、という称賛の声が世界でますます強まると思います。
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